独り掲示板

ライトスタッフは名作です-2

独り言レス

【誰にともなしに、独り言レス―その3230】

 

その 793~796 (2005/11/10~26)         

 

アメリカのスカイラブ(宇宙ステーション)に 2 年先立って、ソ連サリュート 1 に 3 名のクルーを 22 日間 滞在させる (1971年 6月)―このミッションが ソユーズ11 で、任務を完遂し地球に無事帰還させたはずが、いざ フタ(宇宙船のハッチ)を開けてみたところ、クルー全員が死亡していた。

 

事故原因は要するに空気洩れで、当時 ソユーズのクルーは(カプセルの気密性を過信してか)宇宙服を着用してなかったゆえの悲劇―と言うか、かさばる宇宙服で着ぶくれ状態のクルーなら 2 人しか搭乗できなかった。(←ソユーズが基本的に 3 人乗りというのは宇宙服なしでの話)

 

そのため、以降は宇宙服必着となり(1980年に改良されて宇宙服でも 3 人 OK の居住性になったが)ASTP のソユーズ19 (1975年)のクルーは物理的に (レオノフとクバソフの)2 名に限られていたわけです。

 

もっとも 前述したように、アポロからの来客スペースを考慮してというのが優先してると思うけど。 (←考えてみたら、そんな狭いソユーズにスタフォードとスレイトンを加えて、よく 4 人も入れたもの―写真を見ると、確かに気持ち悪いくらい互いに密着してはいる)

 

 

で、そのソユーズ11の死亡した 3 名のクルーは実はバックアップ、つまり交代要員だった―そして、もともとのプライム・クルーが レオノフとクバソフ(とコロディン)のチーム。

 

ミッション直前(打ち上げ 3 日か 4 日前)のレントゲン検査でクバソフが引っかかり(結核の疑い)、レオノフらはバックアップと(規則でチームごと)入れ替えられる―結局 クバソフは何ともなかったのに。

 

この皮肉な顛末には 誰しもアポロ13(1970年)のケン・マッティングリーを思い起こすでしょう―風疹の疑いで(3 日前に)ジャック・スワイガートと交代させられるも、結局 マッティングリーは何ともなかった。

 

深刻なトラブルに見舞われたアポロ13 のクルーは奇跡的に助かり Successful Failure と称えられたけれど、本来のミッションとしては大失敗―おかげで逆にマッティングリーはアポロ16 で成功裡に月に行く。

 

クバソフは自身の何やら肺の影らしきもの(?)のおかげで命拾いし、後に(レオノフとのコンビで)見事 ASTP(ソユーズ19)を成功させることに―

 

参考

 

アポロ15 の "Fallen Astronaut" のプラークにはソユーズ11 のクルー(Dobrovolsky Patsayev Volkov)の名前も記されており、この殆んど同時期(一ヶ月前)の事故が或いは直接的な動機になったのかもしれない。

 

 

ソユーズ11 のクルーの国葬アメリカ代表として参列したのが他ならぬ トム・スタフォードで(棺について pallbearer を務めている)、これも不思議に因縁めいております。

 

その時、偶々スタフォードは休暇でヨーロッパに家族旅行していた―ちょうどいいってんで(?)ニクソン大統領の名代を仰せつかる羽目に。

 

これは外交上の付き合いのお鉢が回ってきただけで、特に抜擢されたとは言えないにせよ、スタフォードが USA アストロノートとして(まだ大佐の頃なのに)それなりのポジションにあった証でもありましょう。

 

 

思いがけないミッション(いわゆる弔問外交)を済ませ、スタフォードが家族のもとへ帰ろうと空路(民間航空)につこうとするや、世話してくれていたコスモノート(Beregovoi)に「まあ、一杯やろう」と足止めされる―遠慮していたアストロノートも(キャビアをつまみに)ウォッカを頂戴することに。(←二人が飲んでる間、他の乗客を待たせて)

 

ASTP におけるチューブ入りウォッカ(実はボルシチ)事件の前フリと言うか、下地が ここにあった…

 

 

ASTP のクルーは互いに相手国語で喋り、アメリカの船長(スタフォード)とソ連の船長(レオノフ)が歴史的な握手をした(Handshake in Space)―

 

例によって ウォーリー・シラーによれば、かつて(マーキュリーの頃からか)フォン・ブラウンとジョークで大いに盛り上がったことに、USA の宇宙船と CCCP (USSR) の宇宙船が期せずして同時に月に着陸した、それぞれのハッチが開きアストロノートとコスモノートが出てきて近づき、二人は言う―

 

“Hello, Hans. Hello, Fritz. Now ve(we)speak German!”

 

これは言うまでもなく、当時 熾烈な宇宙開発競争でシノギを削っていたアメリカもソ連も、何のことはない―その正体は双方とも ドイツ人だったという(シラーらしい皮肉な)ジョークですが、「ライトスタッフ」のフォン・ブラウンが “Our Germans are better than their Germans.” と主張するシーンを思い出すと(より)笑えるでしょう。

 

 

余談

 

ディーク・スレイトンによると ASTP の訓練でレオノフとクバソフがアメリカに来た時に同行していた通訳は KGB だったらしく、逆にスレイトン、スタフォード、ブランド Vance Brand がソ連を訪れた際は常に監視されていて、滞在していたホテルの部屋は盗聴されていた―壁に耳あり(the walls had ears)を試してやれとばかりに「玉突き台がねぇな」とぶうたれてみたら、案の定 その翌日には(玉がポケットより大きくて一晩中ビリヤードで遊べそうな代物ながら)ちゃんと用意されていたのだった。

 

"It got so that whenever we wanted something, all we had to do was speak...the walls had ears. One day we decided to test it, and complained loudly that we didn't have anything to do. "Too bad we don't have a pool table."

 

"The next day, by God there was a pool table in our bar downstairs. It was probably the only pool table in Russia: it had square corners and balls that were too big for the pockets. You could play one game all night."  (Deke!)

 

 

参考-1

 

トム・スタフォードの証言(ロシア語習得の苦労話)―

 

Johnson Space Center Oral History Project  Thomas P. Stafford (15 October 1997) 

 

Stafford: But within a couple of years after the death of Stalin, English started to be the major language taught in the schools, so the very youngest cosmonauts could speak it very good, had a pretty good background. So we started out ahead of them, and then by Christmas we were over there, of '73. Each one of them had a private English professor with them all the time, and they were skunking us, and I knew that I had to speak Russian as well as he spoke English when we opened that hatch. So I called back to Chris Kraft, put a call, says, "Chris, we got a real problem here." And I talked to Glynn Lunney, who was also the program director. I said, "I need at least four professors full time. We need them from early morning till late at night, no union rules, Saturday, Sunday, if I'm going to make this a success." He says, "We'll do it, Tom." So we got four profs in here in the office, and they were with us just about day and night.

 

 

参考-2

 

スタフォードの発音はオクラホマ訛りが酷く、レオノフは ASTP では3カ国語が交わされた(there were three languages spoken on the mission)と主張していて、即ち―

 

Russian, English, and “Oklahomski.”

 

ヴァンス・ブランドの証言―

 

Johnson Space Center Oral History Project  Vance D. Brand (25 July 2009)

 

Brand: We probably had a lot of accent in our Russian. You know, Tom always claims to speak “Oklahomski,” which is a combination of Oklahoma—well, it’s Russian with an Oklahoma accent. I know we all had an accent, and they had accents. We all had varying degrees of expertise with the other person’s language. They did very well in English, I thought, and it was always hard for me to judge how well we did in Russian because you can’t really hear yourself like a Russian would. But we had excellent communications, could understand each other very well.